ホーム > 訳注 荊楚歳時記

訳注 荊楚歳時記

訳注 荊楚歳時記

◎現行本『荆楚歳時記』は杜公瞻の編著書であった!ーー千数百年の時を経て新事実が明らかにーー汲古書院五十周年記念出版

著者 中村裕一
ジャンル 東洋史(アジア)
東洋史(アジア) > 総記・論集
東洋史(アジア) > 殷周秦漢
東洋史(アジア) > 魏晋隋唐
出版年月日 2019/12/23
ISBN 9784762966392
判型・ページ数 A5・520ページ
定価 13,200円(本体12,000円+税)
在庫 在庫あり
 

目次

正 月

 一   元日は三元といい、正月を端月という
 二   鶏鳴いて起きる
 三   庭前に爆竹し、悪鬼(悪霊)を避ける
 四   門戸に画鶏、桃板、門神(神荼と鬱壘)を飾る
 五補  謝道通、羅浮山で朱書の桃板をみる
 六   屠蘇酒と五辛盤を上る
 七   元旦、麻の実と大豆で瘟気を避ける
 八   元旦の如願の習俗
 九   七日は人日、七種粥を作り、人勝と華勝を贈答する
 一〇  人日に登高する
 一一  立春、燕を象った髪飾りを作る。「宜春」の字を貼る
 一二  綱引き(施鈎、抜河、索道、索鈎、鈎強)をする
 一三  打毬(打球・蹴球)と鞦韆(ぶらんこ)をする
 一四補 正月七日の夜、鬼鳥(鬼車鳥)が渡る
 一五補 正月七日、人像を造る
 一六  正月一五日、豆粥を作り、蚕神を祠る
 一七  正月一五日の夕、紫姑神を迎え、蚕桑と衆事を占う
 一八  正月未の日の夜、井戸と厠を照らす
 一九  正月(一月)の行楽と飲食
 二〇  晦日に窮(窮は疫病神)を送る(衍文)

二 月

 二一  八日は仏陀降誕の日、八関の斎戒を行い、行城する
 二二補 仏陀の降誕日の新花
 二三  春分に戒火草を植える
 二四  春分の春社
 二五  寒食(冬至の後、一百五日目)
 二六補 寒食節の別名
 二七  寒食の日、生菜を摘む
 二八  寒食の日、闘鶏と闘鶏子(闘卵)を行う
 二九補 燕初めて来る

三 月

 三〇  三月三日、禊祓と曲水の飲
 三一補 三月三日、荆楚の曲水の飲
 三二  三月三日、龍舌(龍舌のような団子)を作る
 三三補 三月三日、杜鵑初めて鳴く

四 月

 三四  四月、獲穀(郭公)来る
 三五  四月八日の浴仏会と龍華会
 三六補 四月八日、荆州城に八字の仏を迎える
 三七補 四月八日、荆州長沙寺の九子母(鬼子母)神に詣る
 三八補 四月八日に造花の芙蓉・菱・藕(蓮根)を作る
 三九  四月一五日、僧尼の結夏(結制)
 
五 月

 四〇  五月は悪月、牀と薦席を曝し、屋を蓋うを忌む
 四一  五月五日を浴蘭節という。百草を蹋み、百草を闘わすの戯あり
 四二  五月五日、艾の人形を門戸に懸ける
 四三  五月五日、競渡(舟競べ)。雑薬を採る。屈原の故事
 四四  五月五日、曹娥の故事
 四五  五月五日、薬草を採る
 四六  長命縷と条達(釧)
 四七  五月、鴝鵒を捕獲する
 四八補 土梟
 四九補 梟の声を聞く
 五〇補 五月五日、筒糉、楝葉、長命縷
 五一補 五月五日、蟾蜍(ひき蛙)を捕獲し辟兵とする
 五二補 五月五日、啄木鳥を捕獲する
 五三補 五月、角力(相撲・角觝・角抵)をする
 五四補 荆楚(湖北省)は早晩二蚕
 五五  夏至に糉(ちまき)を食べ、楝葉を頭に挿し、長命縷を繫ける
 五六  夏至に菊灰を作る

六 月

 五七  三時雨(六月の雨)
 五八補 三伏(初伏・中伏・末伏)とは
 五九  伏日に湯餅を作る
 六〇補 六月、氷鑑(保冷用の金属器)を使用する

七 月

 六一  七日夜、牽牛と織女の聚会
 六二  七夕乞巧
 六三補 張騫が河源を尋ねる話
 六四補 七月七日に劉婕妤が琉璃筆を折る
 六五  七月一五日、盂蘭盆会
 六六補 七月、面脂(顔に塗る化粧品)を為る
 六七補 七月、書物と衣料の虫干し

八 月

 六八  八月一日、小児に天灸を施し、眼明囊を為る
 六九補 秋分、秋の社日
 七〇  豆花雨(八月の雨)

九 月

 七一  九日、重陽、野宴、茱萸、菊花
 七二補 九日、菰(まこも)菜の羹と鱸魚(すずき)の膾
 七三補 九日の催禾雨(九日の雨)
 七四補 菊水

一〇月

 七五  一〇月一日、黍臛(黍の雑炊)を為る。秦の歳首
 七六  一〇月小春(衍文)

一一月

 七七  一一月、鹹葅(漬物)を為る
 七八補 一一月、蘘荷を塩蔵する
 七九  冬至、赤小豆粥を作る
 八〇補 枳椇(けんぽ梨)

一二月

 八一  一二月は臘月、沐浴と臘祭
 八二  臘日に竈神を祭る
 八三  歳暮に蔵彄(蔵鉤)の戯をする
 八四  歳暮の送歳行事
 八五補 歳暮の鎮宅埋石
 八六  閏月は行事なし
 八七補 鴛鴦
 八八補 鶏寒狗熱



本書の要約

衍文について
説明を要する記事
訂正を要する記事
脱字
「一字上げ」と「一字下げ」の記事
二種類の『荆楚歳時記』
「一字上げ」の記事の典拠
「一字上げ」の『玉燭宝典』の記事
『爾雅翼』の「荆楚之俗」
打毬と鞦韆の戯を行う時期
「一字下げ」の箇所にある『荆楚記』
現行本『荆楚歳時記』の著者は杜公瞻
宗懍撰『荆楚歳時記』
『荆楚歳時記』という書名の所以
杜公瞻撰『荆楚歳時記』の時代的意味  
      
追 記
索 引

このページのトップへ

内容説明

【「本書の要約」より】(抜粋)

現行本『荆楚歳時記』、すなわち、杜公瞻撰『荊楚歳時記』は『荆楚記』と『玉燭宝典』の記事を採用し、杜公瞻の文章を加えて、「一字上げ」の記事としている。杜臺卿(『隋書』巻五八)は北朝系の官人であるから、『玉燭宝典』には『荆楚記』の記事を引用するとともに、華北の年中行事にも言及がある。杜公瞻は『玉燭宝典』を使いこなすことによって、六世紀の華北と江南の年中行事を総合化して述べる結果となった。杜臺卿や杜公瞻が活躍した隋王朝という時代は、南北の統一が完成した時代であり、杜公瞻の『荆楚歳時記』は南北の統一という新しい時代の到来に合致した年中行事記であったといえる。
 宗懍の『荆楚記』や宗懍の『荆楚歳時記』は、江南の一地方である荆楚の年中行事記であるがゆえに、注目度が低く、需要も少なく、『荆楚記』は散逸することとなった。杜公瞻の『荆楚歳時記』は唐宋時代に広範囲に普及し、よく読まれた。宗懍の『荆楚記』と杜公瞻の『荆楚歳時記』の違いは何處にあったかといえば、『荆楚記』が江南の一地方の年中行事記、杜公瞻の『荆楚歳時記』は当時における中国主要部を網羅した年中行事記という点が異なる。…… 古代の日本に『荆楚歳時記』は伝来していた。このことは藤原佐世の『日本国見在書目録』雑伝家部に「荆楚歳時記 一巻」とあり、同書総集家部に「荆楚記 一」とあり、『年中行事秘抄』や『本朝月令』に引用があることから明らかである。古代の日本が『荆楚歳時記』を求めたのは、長江中流域の荊楚地方の年中行事に関心があったためではない。……『荆楚歳時記』は荆楚地方の年中行事に加えて、六世紀の華北の年中行事が記載されており、七世紀の中国の歳時風俗を大観するのに好都合であったからである。古代日本も隋唐から「令」を受け入れ、「令」に基礎を置く当時における近代国家の形成に努めていた。「令」には皇帝支配とそれに関連する年中行事があり、唐国の学習と「令制」に基づく天皇支配制に附随する年中行事を確立するために、『荆楚歳時記』を教本の一として必要としたのである。

【本書の構成】

〇『荆楚歳時記』の記事は、陳継儒(1558~1639)の「宝顔堂秘笈広集」本に従う。

〇『荆楚歳時記』の記事は約五〇条から構成されるがこのうちで一記事を二記事に分割した記事もある。

〇 最初に『荆楚歳時記』の原文を示し、次に読み下し文を示し、次に注記を掲げる。

〇 各記事は、読み下し文と語彙の注解からなり、記事の内容や成立する背景を述べる箇所はない。それゆえに、「附節」の項を加え、記事の背景を理解しやすいように配慮した。既刊の『中国古代の年中行事』の当該箇所と併読してもらえれば、各行事の由来や後世の展開がよく理解できると考えた。



Japanese Translation with Notes on the Jing-Chu-Sui-Shi-Ji

 

このページのトップへ