目次
『朱子語類』訳注 巻百二十六(上)
内容説明
【はしがき】より(抜粋)
インドに起源する仏教は、中国に伝来して以来、在来の思想・宗教との間に激しい対立・葛藤を繰り返しながら、民間へと浸透し、確固たる地位を築いて行く。ただ、その大きな障壁となり仏教に対する批判の手を休めなかったのが儒教であり、仏教の社会的な勢力が強くなれば強くなるほど、非難の声は高くなり、対立は深まった。特に宋代に勃興した新儒学は、一面において仏教から哲学・論理的な影響を受けており、類似した点があればこそ、自らの儒教哲学の独自性を明確にするために、仏教との根本的な違いを主張し、異端として対峙する必要があった。宋代の程朱学者が編纂した諸儒の語録集である『鳴道集』七十二巻の中には、仏教を排斥する言葉が数多く含まれているが、これに対する仏教側からの反駁書として撰述されたのが金の李純甫(一一八五~一二三一)の手になる『鳴道集説』五巻である。そこには周濂渓・司馬温公・張横渠・程明道・程伊川・謝上蔡・楊亀山・朱晦庵など数多くの儒者の排仏の文章が引かれて、反論がなされている。これら仏教批判を行なった儒者たちの中で、もっとも際立った存在で、後世に大きな影響を与えたのは朱晦庵こと朱子(一一三〇~一二〇〇)であった。もとより、宋代儒学を大成した人物が朱子であり、明代以降、科挙が本格的に復活し、朱子学が官学として科挙試験に用いられたからこそ排仏の代表として取り上げたという側面もあろうが、朱子の批判が仏教の急所を見事に突いていたことも事実である。明の永楽帝に仕えた僧名、独庵道衍こと姚広孝(一三三五~一四一八)の著書である『道余録』一巻は、程明道・程伊川・朱子の仏教批判の言葉を四十九条選んで反論を加えた書物であるが、朱子の発言がその分量の半分近くを占めている。
朱子の仏教批判の言葉は、『朱子文集』や種々の著述の中に見られるが、最もまとまった分量と形で残されているのが、『朱子語類』巻一二六「釈氏」の部分であり、全一三六条から成っている。朱子自身が撰述した自定の文章ではなく、弟子たちが聞き書きした「語録」であるため、ともすれば文章としてのまとまりがなく、内容の重複も多々あり、また誤字や意味が不明瞭な個所もないわけではないが、朱子の生の声をそのまま聞くことができる貴重な資料である。『道余録』の朱子排仏の二十一条中、十八条が『朱子語類』巻一二六からの引用であることからも、仏教側が『朱子語類』の文章を朱子の仏教批判の中心的な資料と認識していたことは疑いない。その意味で、この『朱子語類』巻一二六の仏教批判を正確に読解することは、単に朱子の仏教観を明らかにするだけでなく、宋代以降、元・明・清において繰り広げられた儒仏論争を紐解く鍵にもなるのである。