内容説明
【はじめに】より
中国の散文の中には、「非古」あるいは「變體」であることを理由に、従来、古文の道統を重んずる人たちから蔑まれてきた作品群が存在する。たとえば、明清時代に流行した壽序(誕生祝いに贈る文)や自らの身内の女性のために撰した行状(家状)などがそれにああたる。
本書が研究の中心にすえ歸有光(1506~71)は、明を代表する古文家であると同時に、「非古」の散文の名手であり、また家庭を舞台とする忬情散文の名手でもあった。
彼の作品の多くは、地元である呉の士大夫に乞われて書いた送序・壽序の類、つまり応酬の作である。また、好んで身辺の瑣事に材を取り、とりわけ家庭内の女性や子どものことを敍した文はきめ細やかで忬情性に豊み、読者の胸を打つ。短い文の中に挿入されたちょっとしたエピソードや故人の仕草についての描写は精彩を放ち、まるで映画のフラッシュバックを見ているようにその情景が読者の眼前に立ち現れるのである。しかし、明代の、彼が生きていた時代に在っては、歸有光はせいぜいのところ、呉の一地方の文学者として評価されていたにすぎない。…ところが、明末清初になると、銭謙益をはじめとして黄宗羲・汪琬、方苞といった著名な文学者たちが、相継いで歸有光文学を再評価し始めた。彼等に共通する特徴は、自らこそが真に歸有光文学を知るものだと任じていた点にある。
明から清へかけて起こった歸有光文学評価の急激な転換は、何を意味するのであろうか。従来、それは古文辞派から唐宋派への転換として説明されてきたが、果たしてそれだけであろうか。
論者は、この転換は、単なる流派の興亡によるものではなく、士大夫の文学観の変化、理想主義からある種の現実主義への転換によるものではないかと考える。つまり、明清の士大夫にとって、「載道の文」や「天下国家を論ずる文」は文学上の理念ではあっても、創作の場での具体的な指針とはなり得なくなっていた。理念はすでに建前となり、士大夫の現実生活を反映した身辺雑記風の忬情散文が流行するようになるのがこの時期の特徴である。明中期に登場した歸有光文学はその濫觴と位置づけることができる。
【内容目次】
第Ⅰ部 歸有光評価の転換
第一章 明の文学状況と歸有光
一 歸有光の生涯
家世 附崑山歸氏世系表・名号・略伝・科挙・
子孫附歸有光子孫世系表
二 著述と版本
三 歸有光文学の特徴とその研究動向
基本伝記資料・選註本・単行研究書・論文
四 問題の所在
文学観の変転・歸有光は唐宋派に非ず
第二章 銭謙益による歸有光の発掘
一 『列朝詩集』歸有光小伝と『明史稿』『明史』への影響
二 捏造された「妄庸」論争
三 歸有光と古文辞派の人々
四 王世貞の後悔
五 『列朝詩集』小伝にみる伝記の潤色―湯顕祖伝の場合
六 歸有光墓誌銘の改竄
第三章 黄宗羲の歸有光評価
一 銭謙益の歸有光観との違い
黄宗羲の明文史観・“眞の震川”
二 黄宗羲の明文選にみる歸有光
黄宗羲の明文選・『明文案』『明文海』が採る歸文 附黄宗羲採録歸文
黄宗羲と康熙本『震川先生集』
三 黄宗羲の歸文評
一往情深・黄宗羲の壽序観・歸有光の経学と時文への評価
四 震川一派と黄宗羲
艾南英・呂留良・汪琬
第四章 歸荘による『震川先生集』の編纂出版
一 歸荘の出自と境遇
二 崑山本と常熟本
三 『震川先生集』の編纂と刻行における歸荘の挫折
四 『震川先生集』ついに上梓さる
余語―重修本『震川先生集』と『大全集』附版本編纂過程図
第五章 汪琬の歸有光研究
一 汪琬の文学観と歸有光受容
二 『擬明史列伝』歸有光伝の特徴
三 『歸震川先生年譜』の編纂
四 「歸元恭に与ふる書」
五 歸文「書張貞女死事」の校定をめぐって
六 汪琬批校本『歸太僕先生集』 汪琬歸文批語 汪琬歸詩批語
七 『歸詩考異』
第六章 桐城派の歸有光評価
一 戴名世と方苞の歸有光評価
二 劉大櫆と姚鼐の歸有光評価
三 張士元と呉徳旋の歸有光評価
四 曾國藩の歸有光評価
五 呉敏樹の歸有光評価
六 林紓の歸有光評価
第Ⅱ部 歸有光の古文
第一章 「先妣事略」の系譜
一 「先妣事略」の忬情性
二 先妣行状以前の母を語る文学
三 宋における先妣行状の生成
附士大夫自撰先妣関連文一覧表(六朝~明中期)
四 明における先妣行状の展開
五 先妣行状の流行の背景
六 歸有光と母子の情
第二章 「寒花葬志」の謎
一 「寒花葬志」の忬情性
二 「寒花葬志」の主題に関する従来の解釈
三 士大夫の家庭と媵
四 「女如蘭壙志」の謎
五 「寒花葬志」が追悼したのは誰か
第三章 歸有光の壽序
一 壽序の誕生
二 壽序の文学的地位
三 歸有光壽序の特徴 附歸有光現存壽序一覧表
四 女性壽序
第四章 歸有光と貞女
一 張氏惨殺事件と「書張貞女死事」
張氏惨殺事件・捜査と裁判
二 好事か、史伝か
三 旌表の後に
四 歸有光の貞女観
第五章 二つの『未刻稿』
一 編刻の歴史と『未刻稿』
二 二つの『未刻稿』
三 二つの『未刻稿』の篇目一覧 附歸有光『未刻稿』篇目一覧表
四 歸子寧「先太僕世美堂稿跋」
あとがき・初出論文一覧・歸有光年譜