目次
第一章 〈異郷〉の探求――散文集『山水』
一 昆明から北平へ
二 散文集『山水』の異郷
三 リルケ『マルテの手記』の啓発
四 「単純な心は一切を整える」
第二章 〈交わり〉の境界――一九二〇年代の物語詩
一 初期作品に見える自意識の対象化
二 コミュニケーションが成立しない悲劇――「河上」「帷幔」「蚕馬」
三 〈窓〉を隔てた対話と接触――「伯牛、疾あり」
第三章 無名の〈自然〉――散文「セーヌ河の名もなき少女」
一 散文「セーヌ河の名もなき少女」一九三二年/一九九二年
二 西洋の〈セーヌ河の名もなき少女〉
三 『伍子胥』「溧水」の少女
第四章 個人と社会――『十四行集』
一 個人と集団のアナロジー
二 個人と集団の関係
三 「歩くこと」――身体移動と生成変化
第二部 卞之琳の詩と散文
第一章 生成変化の時間意識――『西窓集』
一 散文「成長」
二 ローガン・スミスと卞之琳
第二章 抗戦期の反戦詩――消えた「慰労信」第十八首
一 「慰労信集」第十八首
二 「慰労信集」所収版本について
三 「新しい抒情」
第三部 民国期の詩学
第一章 民国期の新詩理論における「共感」・「実感」・「美感」
一 宗白華の「経験」と「同情」
二 周作人の「実感」
三 朱光潜の「美感経験」
第二章 「美的経験」と「心理的距離」――朱光潜の美学
一 「美的経験」と「心理的距離」
二 「距離」のいろいろ
三 「心理的距離」と鑑賞
第三章 三、四十年代の新詩批評――朱自清・李広田・袁可嘉
一 武田泰淳の新詩批評
二 「解詩」批評――『詩の芸術』と『新詩雑話』
三 ニュークリティシズム的批評――袁可嘉『新詩現代化論』
第四部 古典との対話
第一章 「詩経」と「聊斎」――梁秉鈞の古典新詩
一 梁秉鈞の六十年代
二 「ガラスの冷たさ」と「巻耳」
三 「クモの巣」と「緑蜂」
四 「覆う掌」と「蟋蟀」
第二章 陳育虹が奏でる〈交ぜ織り〉の響き――サッフォー、李清照への応答
一 詩集の特色
二 サッフォー断片との〈交ぜり織り〉
三 李清照詩句との〈交ぜり織り〉
四 むすびに――翻訳者として
あとがき
索 引(書名・人名)
内容説明
【はじめに より】(抜粋)
本書の中心課題は、二十世紀中国に生きた二人の詩人の詩と散文を通して、美的なものと倫理的なものが、個人と社会の関係や時間に対する意識とどのように結びつき、表現されているかをさぐることにある。美感や倫理という概念そのものの解明をめざすのではなく、二十世紀中国に生まれた新詩という新しい文体に、美的なものと倫理的なものへの志向を見出すことがねらいである。特に馮至と卞之琳を取りあげたのは、前述した理由のほかに、二人の代表的詩集『十四行集』と『十年詩草』が、いずれも日中戦争期の一九四二年に出版され、彼らの美感と倫理のかたちを最もよく体現し、しかも中国新詩上、画期をなす作品だと考えられるからである。(中略)馮至と卞之琳に関する研究は、中国にはすでに優れた成果がいくつもあるが、日本ではそもそも中国新詩の翻訳紹介や研究はほとんどなく、一般には新詩の存在すら知られていない。それは中国古典詩が「漢詩」として長く親しまれ、日本文化にも深く根を下ろしているのとは著しい対照をなしている。第一部、第二部、第四部では、新詩のテクストをより多く引用することを心がけたが、それは「紹介」の意義をいくらか意識したためである。また、筆者の舌足らずな説明より、詩のテクスト自体に説得力があると考えたこともある。
本書で取りあげた文学者たちの仕事は、それぞれモチーフやスタイルは異なるものの、個の人間として、また共同体や社会の一員としてどう生きていくか、どのようにしてひとりの「人」になっていくのかという、素朴だが、より根本的で普遍的な問いを含んでいる。そのことばを通して、新たな感覚と思考へいざなう中国新詩の存在とその魅力の一端にふれていただければうれしい。