目次
第一篇 東アジア古代の動態と変容
第一章 東アジア古代における「中華」と「周縁」の理解をめぐって
第一節 五胡北朝史と東アジア古代史
第二節 東アジア史上における人質のもつ意味
第二章 白村江の戦いと東アジア古代における世界秩序の変動
第一節 小田富士雄氏の所説をめぐって
第二節 白村江後、高句麗滅亡に至る国際関係
第三節 白村江の戦いの歴史的意義
第三章 東アジアから見た北朝と倭国の動向
第一節 倭国の北朝認識
第二節 安東大将軍号と北魏
第三節 南北朝時代に生じた東アジア世界秩序の変容
第四章 北魏の洛陽遷都と孝文帝の改革
――改革の中国史上に占める位置をめぐって――
第一節 北魏洛陽出土墓誌の理解をめぐって
第二節 五徳相生と孝文帝洛陽遷都の歴史的意義をめぐって
第五章 中華文明と日本の天皇についての覚書――王から天皇へ――
第一節 シンポジウム報告の一 ――三皇、天皇大帝について――
第二節 シンポジウム報告の二 ――漢委奴国王、親魏倭王について――
第三節 シンポジウム報告の三 ――好太王、倭の五王について――
第四節 シンポジウム報告の四 ――中国皇帝への臣称について――
第五節 シンポジウム報告の五 ――天皇号の出現について――
第六節 シンポジウム報告の六 ――僭帝について――
第七節 シンポジウム報告の七 ――中国と日本の即位儀礼について――
第二篇 世界秩序の更新と東アジア
第一章 魏晋南朝の世界秩序と北朝隋唐の世界秩序
第一節 倭国「自立化」の過程
第二節 四~六世紀朝鮮・中国における中華意識の叢生
第三節 七世紀冒頭・遣隋使段階における倭国と中国の関係
第四節 倭国と唐の「争礼」
第五節 唐・高句麗・百済・新羅の動向と白村江の戦い
第六節 世界秩序の変貌――魏晋南朝と北朝隋唐――
第二章 中国を中心として見た漢唐間の「交流と変容」について
第一節 「魏晋南北朝隋唐時代史の基本問題」シンポジウム
第二節 「北朝国家論」
第三節 第一回中国史学国際会議
第四節 「民族問題を中心とした魏晋南北朝隋唐時代史研究の動向」
第五節 当該時代における「民族」についての若干の補足
第三章 顔之推のパーソナリティと価値意識について
第一節 従来の見解をめぐって
文林館事件をめぐって「裏切り」はあったのか
北斉末の顔之推の行動は異常であったのか
関中時代の顔之推は「失意の人」であったのか
第二節 顔之推の思想の枠組み
顔之推の思想の中核――現実主義――
顔之推の先進性と保守性/兄弟関係の重視
女性問題へのこだわり
あとがき――一研究者から見た日本と中国――
索 引
内容説明
【序言より】
二〇〇五年に刊行した『中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝』と題する拙著の終章に「魏晋南朝の世界秩序と北朝隋唐の世界秩序」という項をたて、
南北朝時代は最終的に北朝最後の王朝である隋による中国再統一へと帰結してゆく。このことを南朝の側から見 るとき、それは南朝を中心とした世界システムの崩壊を意味していたといえるであろう。(中略)
また、……私は古代日本における歴史展開をその中華意識の形成という観点から考察したが、その軌跡を五胡・北朝・隋唐に至る中国史の展開と比較するとき、秦漢魏晋的秩序から見ると、同じく夷狄であったものが、それぞれに「中華」となるという点で(「東夷としての倭から中華としての日本へ」と「五胡から中華への変身」)、両者は相似た軌跡を描いたのである。そしてこの軌跡の類似は、今まで述べてきたことを踏まえると、決して偶然に生じた類似ではないといえるのである。すなわち、五胡・北朝・隋唐と古代日本は、秦漢帝国を母胎として、その冊封を受けるという形で魏晋南朝的システムの中から成長し、それを突き崩しつつ出現した、という面で共通した側面をもつ国家群であったといえるのである。
と述べたことがある。
ここで述べた世界秩序、世界システムの定義はウィットフォーゲルによるものであり、本書に即して記すならば、南朝が構築しようとした政治的・国際的秩序、北朝が構築しようとした政治的・国際的秩序、隋あるいは唐が構築しようとした政治的・国際的秩序のことである。その際、本書では、中国が企図した世界内における諸民族、諸国、政治集団がその秩序に率先して参加したのか、強制的に参加せしめられたのかといった点などはまた別個の問題であり、ここではあくまで南朝なり北朝なりが自己を中心として構築しようとした秩序について考察する。(その詳細については本書第一章、第二章にゆずる。)本書はこうした意味での世界秩序の変容という観点から、先の谷川氏の考えに見える「東アジア世界史」の構築を目指す試みの一つとして、漢唐間の歴史変容の問題について考究しようとするものである。