内容説明
【主要目次】
序(藤原英城)
序 章
第一章 『本朝桜陰比事』と『棠陰比事』の表現の一考察
一、『棠陰比事』と『桜陰比事』の共通性についての先行研究
二、『桜陰比事』と『諺解』、『物語』、『加鈔』の文章表現上の共通点
についての考察
「傅隆議絶」と巻一の三「御耳に立は同じ言葉」/「趙和贖産」
と巻五の六「小指は高ぐゝりの覚」/
「程簿旧銭」と巻二の三「仏の夢は五十日」/
「丙吉験子」と巻一の二「曇は晴る影法師」/
「符盗並走」と巻五の二「四つ五器重ての御意」
第二章 『板倉政要』をめぐる諸問題――『棠陰比事』と『本朝桜陰比
事』とに関連して
一、先行研究
『板倉政要』と『棠陰比事』/『板倉政要』と『桜陰比事』
二、『板倉政要』巻六の三「京六波羅ニテ夜盗町人ヲ殺害シ財宝ヲ
取ル事」と『棠陰比事』「蔣常覘嫗」 /
『板倉政要』巻六の九「賀茂ノ禰宜養父養子出入之事」と『棠陰
比事』「李傑買棺」/
『板倉政要』巻八の十四「買売物出入之事」と『棠陰比事』
「趙和贖産」、『桜陰比事』巻五の六「小指は高ぐゝりの覚」
三、『板倉政要』巻六の十一「五器盗人之事」と『棠陰比事』「符盗
並走」及び按語、『桜陰比事』巻五の二「四つ五器重ての御意」
第三章 『棠陰比事諺解』の特質について
一、『諺解』の構成
二、法律の書としての『諺解』
頼宣と法律の書/羅山による法律専門書〔「宗元守辜」・
「季珪雞豆」・「韓参乳医」〕
三、普及しうる注釈書
的確な語義理解〔「思兢偽客」・「乖涯察額」〕/
適切・平易な文脈理解〔「高柔察色」・「定牧認皮」〕
第四章 『板倉政要』の影響――『鎌倉比事』と『本朝藤陰比事』を中心
に
一、『鎌倉比事』と『藤陰比事』の成立
二、先行研究
三、類話の展開
テーマの共通性/裁判官の態度の共通性/
プロットと表現の一部の一致/
呼応・対照関係〔『板倉政要』巻八「寝首掻く士之事」と『鎌倉
比事』巻二「石に根次分別の重さ」・『板倉政要』巻六「瓢
簞譲二三子一事」と『鎌倉比事』巻六「方角指北の針」〕
四、『藤陰比事』と『鎌倉比事』の性格
第五章 『昼夜用心記』における因果について
一、形式における説得的な因果
『桜陰比事』巻五の八「名は聞こえて見ぬ人の皃」と『昼夜用
心記』巻一の一「世の中の婆々といふ婆」/
『桜陰比事』巻二の八「死人は目前の釼の山」と
『昼夜用心記』巻二の五「駿河に沙汰ある娘」
二、主題における教訓的な因果
巻二の五「駿河に沙汰ある娘」における因果応報/巻三の五
「世界は一夜の乗合舟」における因果応報
終 章
翻訳資料・主要引用テキスト・主要参考文献・
あとがき・初出一覧・索 引
【序「藤原英城先生」】より(抜粋)
周瑛さんの初めての著書公刊にあたり、その慶びに一言申し添えます。周さんは主に日本近世文学における『棠陰比事』の受容に関する研究に従事されてきました。これまでの受容研究は『棠陰比事』の諸本を十分に考慮することなく、漠然と『棠陰比事』本文との比較においてなされてきた観がありましたが、周さんは当時の日本における『棠陰比事』流布本(朝鮮版)の調査を基としながら、さらにその翻訳書や注釈書などにも目配りをして、具体的な受容のあり方を考察しています。その中でも林羅山の著した『棠陰比事諺解』(慶安三、写本)に着目し、文学作品、特に西鶴や後続の浮世草子などの俗文学・比事物に与えた影響について詳しい分析がなされています。紀州藩主徳川頼宣に献上された『棠陰比事諺解』と西鶴本の関係など誰がまともに予想できたでしょう。このように周さんの研究は先入観に囚われないユニークな一面がありますが、比事物における『棠陰比事』離れとも言える現象・作品に言及していることもその一面を物語ります。『棠陰比事』の受容研究が単なる影響関係の指摘にとどまらず、受容されない契機をも含めて幅広く考察されていることが了解されます。『棠陰比事諺解』の流布状況や当時の知識人層と作者・読者層の関係、特に俗文学における両者の文化的伝播・享受のあり方など、なお解明すべき点は残されてはいますが、『棠陰比事』の受容、特に浮世草子において『棠陰比事諺解』が有した意義をその実証的な手続きに基づき具体的に明らかにした周さんの研究は学界に益するところが大きいと言えましょう。
【序章】より(抜粋)
『棠陰比事』は中国南宋の桂万栄が嘉定四年(一二一一)に健康(南京)で典獄官を勤めたとき裁判の役人の 治獄のために編集した判例集である。このような判例集は鎌倉時代に朝鮮より日本に舶載されてきた可能性があると指摘されている。日本に伝来したのは朝鮮版であり、それは元本の覆刻と言われている。『棠陰比事』の伝播には林羅山の影響が非常に大きかったとされている。元和五年(一六一九)羅山は『棠陰比事』の朝鮮板本を筆写し、四門下生の求めに応じて読み下し、側近に訓点を施させた。それを元として元和年間(一六一五~一六二四)にいわゆる元和古活字本の『棠陰比事』が刊行された。更に、近世初期、幕藩体制を確立させる過程において、統治に関する法的な知識を供する『棠陰比事』は統治者に注目された。羅山が慶安三年(一六五〇)紀伊徳川初代藩主頼宣の依頼を受け、『棠陰比事諺解』を著して呈した。また、寛永中(一六二四~一六四四年)には『棠陰比事』を仮名草子風に書き改めた作者不詳の『棠陰比事物語』も出版されていた。『棠陰比事』は他にも様々な板本が刊行された。慶安四年(一六五一)刊行者不明の『棠陰比事』の和刻本、寛文初年(一六六一)絵入本の松会板仮名草子『棠陰比事』、慶安二年(一六四九)安田十兵衛板『棠陰比事物語』及びこの書と本文が同じで改題した延宝元年(一六七三)の『異国公事物語』、元禄五年(一六九二)絵入りの仮名草子『とうひんひし』などがある。
様々な種類の『棠陰比事』の書では一体どれが『桜陰比事』及び他の近世「比事物」(裁判関係作品)に影響しているのだろうか。更に、『棠陰比事』の影響が見える『板倉政要』と『桜陰比事』は日本で生まれた比事物として、それ以後誕生した「比事物」にどのように関わっているか。こうした視点を中心として、本論では具体的な『棠陰比事』受容のあり方を考察してみたい。