目次
一 「日本漢文学」研究について
二 江戸後期の日本漢詩文壇
三 主題の人物 其の一 齋藤拙堂
四 主題の人物 其の二 賴山陽
五 主題の人物 其の三 賴春水と賴杏坪
第一編 齋藤拙堂の詩文
第一章 齋藤拙堂と韓愈――『拙堂文話』をめぐって――
一 『拙堂文話』とは
二 拙堂の文中の韓愈への言及
三 拙堂の「意」と「気」
四 韓愈の人格への敬意
五 『文話』での韓愈推重の意義
第二章 齋藤拙堂の詩と紀行詩文
一 詩人としての拙堂
二 拙堂の詩の原稿
三 拙堂の詩文論と実作
四 拙堂の紀行文
五 拙堂における「遊記」
六 拙堂の旅行記
七 拙堂の紀行漢詩文の意義
第三章 『拙堂文話』正編の版本について
一 『文話』異本の存在
二 諸本
三 消えた部分
四 加筆された部分
五 拙堂自序の変化
第四章 『海外異傳』について
一 『海外異傳』とは
二 伊東祐相の題詞
三 山田長正傳
四 濱田彌兵衞傳
五 鄭成功傳
六 『海外異傳』への批判
七 小林道隆の『匡謬』
八 谷三山の『商榷』
九 拙堂の自序と「小説」
十 拙堂の跋
十一 「小説」としての『海外異傳』
第五章 齋藤拙堂の「狂」
一 拙堂の漢詩の中での「狂」
二 好ましからざるもの
三 好ましきもの 其の一
四 好ましきもの 其の二
五 好ましきもの 其の三
六 拙堂の「狂」
第一編 結び――儒者としての齋藤拙堂――
第二編 賴山陽の詩文
第一章 賴山陽の「十二媛絶句」
一 「十二媛絶句」とは
二 「十二媛絶句」の諸本
三 各詩と『野史詠』、『日本樂府』
四 十二人の選択と配列との意味
五 山陽の理想の女性像と女性観
第二章 賴山陽の詩社と中国の漁の詩
一 山陽の主催した詩社
二 真社について
三 魚を捕る詩
四 杜甫の魚の詩
五 何景明の魚の歌
六 山陽の詩風と生き方の方向性
第三章 墓銘を書く山陽と拙堂
一 忘年の「朋友」
二 山陽先生曰はく「豈に能く之を致さんや」と
三 拙堂先生曰はく「選びて其の材を取らん」と
四 共通項は袁枚か?
五 山陽と拙堂
第四章 賴山陽の「狂」
一 「狂」弱を兼ね備えて
二 心はいつも
三 変化するもの
四 変わらぬもの
五 陸游・李白・張旭
六 また自己を言う
七 詩壇の「狂」と山陽の「狂」
第二編 結び――多才な歴史家の山陽――
第三編 賴春水と賴杏坪の詩文
第一章 賴春水の詩について
一 「春水詩稿」の存在
二 大坂時代の詩
三 藩儒登用
四 晩年の詩
五 春水の詩作
第二章 賴杏坪の詩について
一 杏坪の詩のテキスト
二 「老」字の頻用
三 「政事」に携わって
四 本当のつぶやき
五 引退して
六 杏坪の詩
第三章 賴杏坪の『十旬花月帖』と漢詩と和歌とについて
一 『十旬花月帖』とは
二 特徴[一]漢詩と和歌との同工異曲
三 特徴[二]漢詩と和歌との応酬
四 特徴[三] 和歌のみで詠んだもの
五 特徴[四]漢詩の連作と和歌の連作との同時進行
六 特徴[五]和歌連作と漢詩連作の区別
七 特徴[六]和漢一対
八 杏坪の漢詩と和歌
第三編 結び――賴春水と賴杏坪の「狂」――
結語――拙堂、山陽、春水、杏坪の軌跡――
主要参考文献
齋藤拙堂・賴山陽・賴春水・賴杏坪略年譜
論文等初出一覧
あとがき
人名索引
内容説明
【序論より】(抜粋)
「日本漢文学」は、私達日本人が、どのように中国の文化を採り入れ、それをどのように独自の文化に発展させてきたか、という命題を含んでいる。本研究は、そうした命題を念頭に置き、各時代の中から江戸時代後期を取り上げ、日本人の手により、中国文学の形式を取って作られた日本漢詩文作品の内容と、そこに込められた作者の意識とを検討し、その作品の意義を考察するものである。
本書で取り上げる四名は、活躍した時期も場所も立場も異なっている。齋藤拙堂は、地方藩の江戸屋敷で、あまり地位の高くない武士の家に生まれ、努力して藩儒の地位を得た。賴山陽は広島藩儒の跡継ぎとして約束された身分を捨て、京という都会の市井で自由に後半生を生きることを選んだ。山陽の父親である賴春水は、竹原の紺屋兼医者の家に生まれたが、父の期待を背負って大坂へ遊学し、広島藩儒となった。その末弟である賴杏坪は、長兄春水に次いで広島藩儒となったが、学問所以上に藩の実政に力を注ぎ、その働きが認められて、七十五歳で致仕を許されるまで藩の業務に尽くした。彼らがその地位に就くまでの経緯や、漢詩文の創作に励む時期や姿勢は、各各異なっている。
四名は、文人趣味に生きたように見える部分がありながら、文人視されることを好まなかった点は共通しているが、それぞれ文人趣味にいそしむ度合いが異なる、と私は考える。その彼らが、漢詩文という手段を用いてどのように思索し、どのように自己を表現していたのか、各人について論を重ね、更にその繫がりを考えてゆくこととする。