目次
凡 例
第十章 万葉集における宮廷歌の古典とその分類 その四
第一節 春の雑歌について
第二節 春の相聞歌について
第三節 夏の雑歌について
第四節 夏の相聞歌について
第五節 秋の雑歌について
第六節 秋の相聞歌について
第七節 冬の雑歌について
第八節 冬の相聞歌について
第十一章 古今の相聞往来の歌の類の上
第一節 旋頭歌十七首
第二節 柿本朝臣人麿の歌集に出づ 一百四十九首
第三節 出所不明の歌集三百二首
第十二章 古今の相聞往来の歌の類の下
第一節 柿本朝臣人麿の歌集に出づ 二十三首
第二節 その他の歌集に出づ
第三節 問答の歌
第四節 羈旅に思いを発す
第五節 別れを悲しぶる歌
第六節 問答の歌
第十三章 万葉集歌総合の補遺
第一節 雑歌二十七首
第二節 相聞の歌五十七首
第三節 問答の歌十八首
第四節 譬喩歌一首
第五節 挽歌二十四首
第十四章 万葉集歌における東歌の世界
第一節 東歌五首
第二節 相聞往来歌東国各国七十六首
第三節 譬喩歌東国各国九首
第四節 未勘国東歌雑歌十七首
第五節 未勘国東歌相聞歌百十二首
第六節 未勘国東歌防人・相聞歌五首
第七節 未勘国東歌譬喩歌五首
第八節 未勘国東歌挽歌一首
第十五章 天平八年の遣新羅使悲別贈答海路慟旅陳思作歌及び夫婦離別贈答歌
第一節 天平八年丙子夏六月、
遣新羅使悲別贈答及海路慟情陳思歌、并当所誦之古歌
第二節 天平八年遣新羅使、瀬戸内海航路、各浦泊の作歌
第三節 天平八年遣新羅使、筑紫海路を往く各歌
第四節 天平八年遣新羅使、
筑前国志麻郡韓亭・引津亭、肥前国松浦郡狛島亭舶泊作歌
第五節 天平八年遣新羅使、壱岐・対馬両島への船旅
第六節 天平九年遣新羅使帰国、
筑紫海路入京、到播磨国家嶋之時作歌五首
第七節 中臣朝臣宅守娶蔵部女嬬狭野弟上娘子之時、
勅断流罪、配越前国、夫婦別離、各陳慟情贈答歌六十三首
第十六章 由縁有る雑歌
第一節 竹取物語の濫觴
第二節 その他の男女関係歌各首
第三節 宴席酒興の歌各首
第四節 戯笑歌・嗤笑歌
第五節 無常歌・人生歌
第六節 各地浦渚の海人の歌
第十七章 天平二年十一月より天平二十年春、大伴家持の公務と作歌活動
第一節 旅人から家持へ
第二節 天平十八年正月雪の日、太上天皇御在所掃雪後の宴席
第三節 大伴宿禰家持越中守赴任と越中での歌作活動開始
第四節 越中守大伴宿禰家持、哀傷長逝之弟歌
第五節 越中国における守家持と掾池主との贈答歌数首
第六節 守大伴宿禰家持、正税帳持参上京、餞する宴の歌
第七節 放逸せる鷹を思いて、夢に見て感悦びて作る歌
第八節 越中国各郡各地の歌
第十八章 天平二十年春より天平勝宝二年春、大伴宿禰家持の公務勤務と作歌活動
第一節 左大臣橘諸兄使田辺福麿、越中国到来
第二節 太上皇(元正天皇)の難波宮に御在しし時の歌七首
第三節 越中国守大伴宿禰家持と周縁官人の歌作活動
第四節 越中国守大伴宿禰家持の大伴氏言立と大夫(ますらを)意識
第十九章 天平勝宝二年三月朔日より同五年二月二十五日まで、及び古歌の追補
第一節 天平勝宝二年、越中国守大伴宿禰家持の行政と歌作活動
第二節 天平勝宝三年、越中国守大伴宿禰家持の行政と歌作活動
第三節 天平勝宝三年、大伴宿禰家持少納言就任、
在京での行政任務と歌作活動
第二十章 天平勝宝五年五月朔日より天平宝字三年正月一日、及び古歌の追補
第一節 天平勝宝五年五月より同六年七月、
少納言大伴宿禰家持の行政と歌作活動
第二節 天平勝宝六年秋、兵部少輔大伴宿禰家持の歌作活動
第三節 天平勝宝七年二月、
兵部少輔大伴宿禰家持の相替遣筑紫諸国防人等歌編纂
第四節 天平勝宝七年春以降、兵部少輔・右中弁・因幡守
大伴宿禰家持の行政と作歌・歌収集作業
第五節 天平宝字元年(七五七)冬以降、
右中弁大伴宿禰家持の行政と作歌・歌収集作業
『万葉集と東アジア世界』結びの二章
第一章 大伴家持と万葉集
第一節 『万葉集』撰の事情と大伴家持の編集方針
第二節 家持の歌修得と『万葉集』
第三節 家持の行政官の公務と作歌・古歌収集と『万葉集』
第四節 越中国守大伴宿禰家持の大伴氏言立・大夫意識と『万葉集』
第五節 家持独歩、万葉歌の探求
第六節 天平勝宝七年二月、
兵部少輔大伴宿禰家持の相替遣筑紫諸国防人等歌撰集
第二章 『万葉集』と東アジア世界
第一節 『万葉集』巻一の位置とその意味
―日本古代国家の成立と東アジア世界―
第二節 飛鳥藤原期の政治変動と士婚及び葬送儀礼
―万葉集巻二の相聞・挽歌―
第三節 『万葉集』における遣唐使・遣新羅使・遣渤海使の記事
第四節 『万葉集』における防人関係歌
第五節 『万葉集』における渡来人・帰化人関係歌
跋
上巻目次
万葉集読み方用例
[万葉集特別漢字用語索引]
[万葉仮名、二字以上語句索引]
[短漢文語句索引]
索 引
[件名事項索引]
[件名・動物索引]
[件名・植物索引]
[人名索引]
[地名索引]ほか
内容説明
【下巻「跋」 より】(抜粋)
本書をいかにして作成したか。再度確認しておきたい。
『万葉集』の研究は膨大な研究の蓄積がある。それを押さえなければ万葉集は考えられない。しかも四千五百十六という数、五世紀から八世紀の四百 年、九州から東北に至る広範囲の空間、そこの千を超える多くの人びと、歌の題の複雑さ、雑歌、相聞、挽歌、譬喩、旋頭歌、それに長歌・反歌というこの万葉集にしか無いと言ってよい独特の詩文体、等々そうした多様性を瞬時に把握しなければ『万葉集』は学問的には把握できない。文学者が感受性だけで『万葉集』を鑑賞するのを否定するものではない。ただ、それだけだと『万葉集』の誤解が生じる。最たる誤解は近世の本居宣長らの国学である。柿本人麿的万葉集だけを『万葉集』と思う誤解はとんでもない理解、というより国学思想を生む。
本書の万葉集の素材は、高木市之助・五味智英・大野晋校注『萬葉集一~四』日本古典文学大系4~7、岩波書店、一九五七年~一九六二年である。右頁に漢字のみの原文が載り、左頁にその訓読が載る。左右頁を通じて、万葉各歌の上部には頭注がつき、また和歌の頁の末には補注が付く。これが膨大な万葉研究の蓄積の集成となっている。
右頁の漢字のみの原文はこれこそ永年にわたる万葉研究の成果なしには読めない。左頁はどうか、さて、これまで学校で教えられてきたことは万葉集は万葉仮名で書かれて居るとされる。また、仮名といっても漢字の草書体の延長にある平仮名、漢字の一部を採った片仮名(カタカナ)とは違い、漢字そのものを変化させず使用している音調文字だという。そこで岩波古典文学大系『万葉集』左頁のその訓読を史料にしようと思って困った。右頁の漢字が左頁では変わり、別の漢字になっていることに気がついた。漢字がその歌で言いたいことに変化がないはずはない。漢字が変わると意味が変わったり、ずれたりしたのでは、万葉集の歌の理解ができなくなる。万葉研究の膨大な研究は十分大事にすると言っても、岩波古典文学大系本万葉集の左頁そのものを史料にする訳には行かない。
そこで万葉仮名をまず一字一音の五十音表ができるような仮名漢字を特別扱いして歌の語の平仮名をゴチックにし、そうでない鶴・鴨・蟹・蟬・鴦・谷・西・霜・乍・管などの漢字は標準体の平仮名に区別し、右頁の漢字は可能な限り残すという方針で、とりあえず万葉集巻一から巻九、歌数一八一一を各巻、各章に分けて悉皆収集してみた。その結果わかったこと、まず万葉仮名、特にゴチックにした仮名で歌が作られているのは、本書上巻の巻一から巻九では、巻五の大宰帥大伴卿の凶問に報ふる歌一首793から883の九〇首だけである。今回の下巻では巻五と同じ万葉仮名立が増えた。巻十四が二百三十八首、巻十五が約二百七十首、さらに巻十七が百四十二首、巻十八が百七首、巻二十が二百二十四首、それにその他にも若干存在して約九百八十一首となる。上巻分九十首を加えると一千首を少し超える。それで万葉集全体の約四分の一となる。ただ、本下巻は大伴家持中心で、額田王、志貴皇子、柿本人麿、山部赤人ら普通万葉歌人の代表とされる人の歌はほとんど含まれていない。旅人・憶良にしても巻五の分だけで八割は人麿らと同じである。大胆な推測をすれば万葉仮名立は家持の創作ではないかとも言える。郎女には漢字仮名交じりだけでなく、若干であるが万葉仮名立があるが、家持の手になるようである。
それにしても『万葉集』は万葉仮名で作られていないというのは意味のある研究視点である。万葉仮名だけでなく、鶴や鴨や蟹だを使い、所念、将落それこそ何でも文字にして歌を詠む万葉歌人の努力を理解すべきである。近世の国学以来、万葉集は日本の文献で、中国思想やインド仏教思想と距離があるとも教えられてきた。それが大間違いだということも多くの歌で確認できた。最大の問題は万葉集はなぜ作られたか。どんな作成編集意図があるのか、この点もある程度目途が立った。家持が一人で編集した。実に凄いことだ。でもその事情は家持の内面を伺わないと言えないことだが止めておきたい。ただ、『万葉集』は楽しく遊ぼうが家持である。長年考えて来たことだが、日本古代人が中国を中心とした東アジアの文化・文明を受け入れるにどれほどの努力を払ったものか、それら外来文化文明をいかにして日本化したものか、これが念頭から離れない。そこで当然取り上げるべき史料は万葉集だと思った。
The Man’yōshū and the World of East Asia