目次
Ⅰ 聖武天皇宸翰『雑集』「周趙王集」訳注
凡 例
*( )内の数字は、合田時江編『聖武天皇『雑集』漢字総索引』に付された
『雑集』全体の作品番号
1(一一一) 道会寺碑文
2(一一二) 平常貴勝唱礼文
(1)法身凝湛
(2)因果冥符
(3)無常一理
(4)五陰虚仮
3(一一三) 無常臨殯序
4(一一四) 宿集序
5(一一五) 中夜序
6(一一六) 薬師斎序
7(一一七) 児生三日満月序
付録 楽府詩一首 従軍行
Ⅱ 周趙王の伝記――『周書』『北史』趙王招伝
Ⅲ 聖武天皇宸翰『雑集』「周趙王集」研究
第一章 北周趙王「道会寺碑文」と中国仏教の再興
一 聖武天皇宸翰『雑集』「周趙王集」と趙王宇文招
二 「道会寺碑文」の問題点
三 道会寺の所在と「皇帝」
四 「道会寺碑文」における皇帝の表現
五 「道会寺碑文」の銘
六 銘文の問題点
七 「道会寺碑文」の位置―結びにかえて
第二章 北周趙王の思想
一 北周趙王と聖武天皇『雑集』
二 北周の文学動向と趙王
三 「平常貴勝唱礼文」の「法身凝湛」文
四 趙王の文章の特徴
五 趙王の思索態度
第三章 庾信から趙王へ――文学的系譜
一 問題の所在
二 趙王「道会寺碑文」の調査
三 庾信と趙王の語彙の共通性
四 梁簡文帝から北周趙王への影響
五 結論
第四章 隋・唐仏教から日本仏教へ――聖武天皇『雑集』と「大仏建立詔」
一 聖武天皇と『雑集』
二 大仏建立発願の詔
三 「智識」をめぐる思考
四 盧舎那仏造立の思想
五 儒教と仏教
六 『雑集』の位置
おわりに
初出一覧
あとがき
語釈・補注一覧
(平成29年度日本学術振興会助成図書)
内容説明
【はじめにより】(抜粋)
本書は、聖武天皇宸翰『雑集』に収められている「周趙王集」の注釈と全訳を行ったものである。「周趙王集」中の「道会寺碑文」は、聖武天皇の東大寺大仏建立の思想的原点の一つとなったものと見ることができ、日本仏教史において見直されてよい文献である。また、同じく「平常貴勝唱礼文」なども、個人としての救済と利他行との関わりを一皇族として、為政者として内省した文章で、やはり聖武天皇の信仰の質や、ひいては奈良朝以来の日本仏教を考えるうえで参照すべき資料となるだろう。
だが、「周趙王集」の価値はそこにとどまらない。この文献の持つ意義は、中国本土の仏教史、思想史、文学史においても、一層重要である。「周趙王集」は、北周の皇族だった趙王宇文招(字、豆盧突。五四五?-五八〇)の文集の抜き書きである。「周趙王集」には七篇の文章が収められている。これは、短詩一首(楽府「従軍行」)をのぞいて中国では完全に亡失した趙王の文章を伝える、唯一の資料である。趙王宇文招は、北周の事実上の創業者宇文泰(文帝)の第七子で、華北の再統一を為しとげた武帝の弟である。北周の建徳五年(五七六)には兄の武帝に従って北斉を討ち、翌六年、北斉を滅して華北統一が成ったと、 功によって上柱国となった。しかし翌宣政元年(五七八)、武帝が急逝し、その子宣帝が即位すると、宣帝は叔父や功臣たちを排除するようになった。かわって権力の中枢に登場してきたのは、宣帝の楊皇后の父、楊堅(後の隋・文帝)である。宣帝が荒淫のために大象二年(五八〇)に急逝し、その幼子静帝が皇位を継承すると、楊堅が政治の実権を握り、帝位をうかがうようになってきた。そのため趙王宇文招は、楊堅暗殺をくわだてるが失敗し、同年七月、一族もろともに誅殺された。趙王は若年のころから庾信(五一三-五八一)に詩文を学び、その強い影響を受けてきた。その文集は「十巻」だった(『周書』本伝)というが、中国では亡失してしまった。 その「十巻」の一部が、聖武天皇宸翰『雑集』中に生き残っていたのであり、本書はそれに訳注を施し、研究を行ったものである。
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「周趙王集」が特別の意味を持つのは、三つの理由による。まず何よりも、趙王宇文招は篤く仏教を信仰していたが、趙王の兄武帝は徹底した仏教弾圧を行ったことで有名だからである。実の兄であり、主君であり、全権力を握る帝王である武帝の廃仏の前後に、趙王宇文招がどのような信仰を持ったのか――武帝の近親者の信仰を知るには、「周趙王集」だけが唯一の資料なのである。次に、武帝の死後に仏教の復興が図られるが、「周趙王集」、ことに「道会寺碑文」によれば、その動きは趙王宇文招自身によって荷われていたことが分かる。一般には隋の高祖・文帝によって仏教復興が為されたと認識されているが、それよりも前に、武帝の弟である趙王らによって仏教復興が進められていたことを、「周趙王集」によって知ることができる。さらに「周趙王集」は、南北朝時代(六朝時代)の終焉を目前にした時点の文学・思想の状況、ことに南北知識人の出会いと交流を示す貴重な資料でもある。趙王は、庾信の教えを受け、庾信から深い影響を受けた。南朝を代表するこの詩人から趙王が影響を受けたこと、その実態を示す資料は、これもま た「周趙王集」だけである。
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第Ⅰ部においては、聖武天皇宸翰『雑集』「周趙王集」に注釈を付し、その全訳を行った。注釈は簡潔を旨とし、訳文は現代日本語として理解しやすいものとなるよう努めた。第Ⅱ部においては、趙王宇文招の伝記を、『周書』趙王伝を中心に記した。第Ⅲ部においては、聖武天皇宸翰『雑集』「周趙王集」を資料とした現段階の研究を示した。