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汲古叢書149 明代武臣の犯罪と処罰

汲古叢書149 明代武臣の犯罪と処罰

◎東アジア全域に武威を輝かせた明朝(明軍)は如何に弱体化したのか、その実態を明らかにする!

著者 奥山憲夫
ジャンル 東洋史(アジア)
東洋史(アジア) > 明清
シリーズ 汲古叢書
出版年月日 2018/01/11
ISBN 9784762960482
判型・ページ数 A5・660ページ
定価 16,500円(本体15,000円+税)
在庫 在庫あり
 

目次



第一章 宣宗朝の軍事態勢

 第一節 総兵官の職務と権限
    (一)総兵官の配置  
    (二)北辺の総兵官  
    (三)南辺の総兵官  
    (四)漕運・鎮朔大将軍・交趾の総兵官

 第二節 鎮守武臣の配置と職務・権限
    (一)都督・都指揮・指揮の各クラス  
    (二)総兵官と鎮守武臣

 第三節 総兵官と周囲の諸職
    (一)総兵官と三司〔北辺/南辺〕   
    (二)参賛軍務
    (三)鎮守内臣・王府         
    (四)兵力・待遇等


第二章 武臣の犯罪

 第一節 全体の傾向

 第二節 軍務上の罪
      軍事行動に関わる罪
      任務遂行上の不正・怠慢

 第三節 軍士の酷虐
      軍士の私役
      金品の強奪
      月糧等の横領・搾取
      軍士の売放
      配下の虐待・私刑

 第四節 経済事犯
      官物・糧米の侵盗
      土地占奪
      商業行為・密貿易
      商・民・番人等からの金品搾取
 
 第五節 その他の罪
      一般的な犯罪・スキャンダル
      礼法上の違反・怠慢
      不明

 第六節 多重犯・上官の告発・抗争


第三章 武臣の処罰

 第一節 律どおりの処罰
      死罪
      「如律」

 第二節 減刑された処罰(一)
      充軍・謫戍
      降・調
      為事官・戴罪官
      立功贖罪
      罰役
      罰俸

 第三節 減刑された処罰(二)
      記罪
      封示
      自陳
      「降勅叱責」
      「移文戒飭」
      「宥之」

 第四節 処罰の運用と『大明律』
    (一)地域と処罰  
    (二)官銜と処罰  
    (三)『大明律』と処罰  
    (四)法司と処罰


第四章 朝廷の対応

 第一節 文臣の認識と対応

 第二節 宣宗の認識と対武臣観
    (一)宣宗の現状認識  
    (二)宣宗の対武臣観

 第三節 宣宗の対応と政権の性格
    (一)宣徳初の減刑方針  
    (二)弊害の発生と方針の再確認  
    (三)宣宗政権の性格

まとめと課題

あとがき
索 引

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内容説明

【本書より】(抜粋)

戦後、明代史の研究は長足の進歩を遂げ、中国史のなかでも最も活発な分野の一つとなった。しかし、その発展は時期や分野によって均等ではなく、政治史や賦役以外の制度史は長く停滞したままであった。

近年、社会経済史の分野がやや相対化されるとともに、他の分野の研究もようやく活発になってきた感がある。軍制史の分野も同様で、明代軍制史の研究は漸く活況を呈しつつある。筆者も諸氏の驥尾に付して研究に従事してきたが、二〇〇三年にそれまでの研究をまとめて前著を上梓した。そこで述べたのは次のようなことである。明一代を通じて、軍制には幾つかの点で大きな変化がみられた。その一つは兵力源の変化である。二つには軍の給与の変化である。三つには軍事面における文臣優位の成立である。

以上のような流れを踏まえたうえで、今回は明軍の弱体化について考える。明朝の軍事力が衰えた原因として、世襲の武臣の軍事能力の低下、軍士の酷虐、軍屯の衰退などがよく挙げられる。しかし、それは必ずしも実証的な研究のうえでいわれているわけではない。本書では宣宗朝(一四二六~一四三五)の武臣の犯罪に焦点を当てて明軍弱体化の原因を探るとともに、そこから宣宗政権の性格について考察したい。何故に宣宗朝かというと次のような理由からである。宣宗朝はわずか一〇年と短いが、仁宗朝と合わせて仁宣の治と称されるように、明朝治下の人々が初めて得た平穏な時期であった。太祖朝は言うに及ばず、靖難の役を経て始まった成祖朝も激動の時代だった。宣宗朝はその後を受けて体制を建て直し、次の安定にむかう準備を整えた時代である。

(中略)モンゴルに対しては、成祖は攻勢防禦の方針をとって親征を繰り返したが、宣宗は防衛線を後退させて専守防衛の体制を整えた。成祖が強行した北京京師体制を軌道にのせるため、江南の官田の運営態勢を整備し、北京への糧米輸送の漕運の態勢を整えた。これらの治績について個々に取り上げられることはあるが、宣宗政権の性格、あるいは皇帝の在り方等について、前後の成祖朝や英宗朝との異同というような点は、意外にはっきりしていないように思われる。宣宗朝を明初に入れるのか中期とするのかも必ずしも一定していない。このような点についても考えてみたい。軍事の面からも宣宗朝は興味深い時期である。太祖は南北の辺防を諸王に委ねたが、靖難の役・漢王高煦の乱を経た成祖・宣宗朝では、諸王の軍事的権限を抑制あるいは回収する方針がとられた。これと表裏するかたちで新たに鎮守総兵官が配置され、辺防の体制が変わることになった。その経緯は本書の中で述べる。また中期以後に顕著になる軍事力衰退の萌しがはっきり現われてくるのもやはり宣宗朝である。成祖が歿したのが一四二四年で、明軍が壊滅的な打撃を被った土木の変が一四四九年である。その間わずか二五年しかない。一世代弱の短い期間に明軍はかなり急速に弱体化したことになる。それはなぜなのか。この疑問を明らかにする為にも宣宗朝の明軍の実態を明らかにする必要がある。前著では主に軍の制度の運用とその変化の様子を考察したが、本書では軍内部の人間の問題について考えたい。まず宣宗朝の軍事態勢を示したうえで、軍内部の武臣の犯罪をとりあげる。どの地域でどのような犯罪が多かったのか、それはどのような武臣によって引き起こされたのか等の諸点を明らかにする。更に罪を犯した武臣が如何に処罰されたのかを考察することによって宣宗政権の性格を分析したい。

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