目次
北宋交子論 (宮澤知之)
粧奩は誰のものか――南宋代を基点にして―― (高橋芳郎)
南宋四明史氏の斜陽――南宋後期政治史の一断面―― (小林 晃)
地主佃戸関係の具体像のために
――万暦九年休寧県二十七都五図における租佃関係―― (伊藤正彦)
明末広東における吏員の人事・考課制度
――顔俊彦『盟水斎存牘』を手がかりに―― (宮崎聖明)
明末の弓術書『武経射学正宗』とその周辺 (城地 孝)
雍正五年「抗租禁止条例」再考 (三木 聰)
清代の溺女問題認識 (山本英史)
元明清公文書における引用終端語について (岩井茂樹)
執筆者紹介
英文目次
内容説明
【序より】(抜粋)
本書は、二〇〇九年三月下旬に滞在中の北京で客死された故高橋(津田)芳郎氏と私とを介して北海道大学東洋史学研究室と縁をもった、宋代史から清代史までの領域を研究する者たちによって編まれた論文集である。それと同時に、本書には高橋氏の追悼記念という思いが込められている。二〇〇九年四月初旬に札幌で告別式と「お別れの会」とが行われた後、当初は、北海道大学東洋史学研究室の関係者を中心に追悼文集を出そうという話がまとまっていた。もとより、同じ研究室に所属する私が中心的な役割を果たさねばならなかったにも拘わらず、その後、自らの怠惰のために、いつの間にかその話も立ち消えになっていたからである。すでに七年を越える歳月が経過しており、私自身、内心忸怩たる思いを禁じ得ない。
……本書には九篇の論文が収録されているが、高橋氏のものを除き、私自身を含めて高橋氏の教えを受けた門生による五篇と私たちのごく親しい同学の友による三篇とから構成されている。高橋氏の論考については、二〇〇七年に『史朋』四〇号に発表されたものを北海道大学東洋史談話会の許諾を得て転載することにした。以下、各論文の内容を簡単に紹介することにしたい。
宮澤知之「北宋交子論」は、十一世紀に四川で鉄銭の「預り証」として出現した交子が北宋末に銭引として紙幣機能を獲得し、南宋の会子へと繋がっていく過程を詳細に考察したものであるが、それは貨幣のもつ種々の機能を細かく辨別することによって行われている。交子は継続して同じ機能を有していたのではなく、慶暦年間から変法期を経て、崇寧年間にかけて、鉄銭の「引換券」から「財政的物流」に密接に関わる支払・送金手段へというように、その性格は様々に変化していったという。
高橋芳郎「粧奩は誰のものか―南宋代を基点にして―」は、妻が実家から持参した財産である粧奩をめぐり、従来、論争の見られる標題の解明へ向けて、法の「原理」と現実の対応とを峻別することで、南宋から明清への展開を考察したものである。南宋では法的にも現実にも、婦人の改嫁の際に持ち出すことのできた粧奩は妻の財産とされており、その後、元代に「持ち出し禁止」令が制定されたにも拘わらず、粧奩は妻のものという人々の意識はさほど変わらなかったのではないか、という。
小林晃「南宋四明史氏の斜陽―南宋後期政治史の一断面―」は、長期政権を担った四明史氏の衰退要因の再検討を通じて、賈似道政権の成立へと至る南宋後期政治史の一端を解明したものである。史氏の「斜陽」が一族内部の不和・軋轢によると見る先行研究に対し、『四明文献』所収の諸史料に依拠して、史彌遠政権期にも史嵩之政権期にも族人との深刻な軋轢は存在せず、史氏が「建前と本音」を使い分けて官界での生き残りを模索していたことを実証している。衰退の要因は中央政界を担う人材の払底にあり、史氏の人脈を継承したのが賈似道であったという。
伊藤正彦「地主佃戸関係の具体像のために―万暦九年休寧県二十七都五図における租佃関係―」は、上海図書館蔵の『明万暦九年休寧県二十七都五図得字丈量保簿』の分析を通じて、南直隷徽州府休寧県の当該図における土地所有や「地主佃戸関係」の実態究明を目指したものである。当該地域では「自家消費目的規模」という少額の土地を租佃することが一般的であったが、多くの土地を所有する業戸から佃僕(火佃)まで個々の状況に応じた自由な選択によって租佃関係は取り結ばれていたという。
宮崎聖明「明末広東における吏員の人事・考課制度―顔俊彦『盟水斎存牘』を手がかりに―」は、主に副題に挙げられた史料に依拠して、明末広東の地方衙門における吏員(正規胥吏)の人事・考課をめぐる運用実態や施行細則の解明を目指したものである。吏員の候補者は「行頭」「行柱」というカテゴリー別の選抜リストに並べられ、さらに「参吏簿」に登記されて吏員ポストに充てられるのを待つという。また「僉充」「挨参」「効労」「吏劄」「供役」等、関連する難解な用語の解説も行われている。
城地孝「明末の弓術書『武経射学正宗』とその周辺」は、崇禎十年(一六三七)の序をもつ高穎撰の弓術書を出発点として、明末における「武」の社会性を武挙の盛行と士人の対応とを通じて究明しようとしたものである。当該期の江南では弓術を媒介とした士人間の交流が存在し、それは全国的規模への広がりを見せるとともに、文・武の垣根を越えるような新たな状況をも生み出しつつあった。また、武挙に対して文系士人さえもが殺到するという事態が弓術書出版の背景には存在していたという。
三木聰「雍正五年「抗租禁止条例」再考」は、一九八八年の旧稿で残された課題、すなわち当該条例制定の発端となった河南総督田文鏡の上奏で佃戸虐待と関連づけられた「挙人王式渙」の問題について考察したものである。王式渙を出した帰徳府睢州の王氏は、康煕年間から雍正年間にかけて多数の科挙合格者や多くの名臣を輩出し、地域社会では圧倒的な威勢を保持した一族であったと思われる。田文鏡『総督両河宣化録』等に所収の奏議・公移類に「王式渙」の名が全く見られない理由もそれに関連していたことを推定している。
山本英史「清代の溺女問題認識」は、明清時代にいわゆる間引きを表す用語として定着した溺女に対して、当該期の地方官、或いは士大夫・知識人層が如何なる認識を有していたのかを考察したものである。康煕年間の地方官による溺女禁止の告示が多数紹介されるとともに、それが奏功しない原因はトータルな「社会問題」としてではなく、単に「移風易俗」の問題としか見ない溺女認識にあり、それは清末から民国にかけても同様であったという。また、十九世紀後半に『得一録』等を著した余治の溺女論および保嬰会が取り上げられている。
岩井茂樹「元明清公文書における引用終端語について」は、元朝以降の公文書で引用された種々の文書の末尾に置かれた「欽此」「奉此」「蒙此」等の用語の読みと解釈と、さらにはこうした「引用終端語」が元代に出現する理由とを明解に開示したものである。清代の公文書原文と翻訳満洲文との比較対照によって明らかにされているように、「欽此」等の用語は単純に引用の終了を表す「現代日本語の右括弧(括弧閉じ)」と同じ記号的役割を果たすだけで、訳出する必要のないものだという。
Chinese Politics and Society during the Song-Qing Period