目次
第一章 宗礀探索の発端と資料
一 『大雲山誌稿』多福の記事から
二 宗礀宛書翰の存在
三 宗礀の生没年
第二章 五山僧との交流、漢和聯句会への参加
一 玉仲宗琇からの書翰
二 惟杏永哲から詩会への招聘
三 鹿児島から剛外令柔の書翰
四 某休閑の宗礀宛書翰
五 近衛信尋邸での詩歌会
六 里村紹巴からの書翰
七 玄仲に『源氏物語』松風の書写を依頼
第三章 宗礀と西洞院時慶・加藤清正
一 西洞院時慶と下津棒庵
二 宗礀と加藤清正
三 宗礀の息甚蔵、伊達政宗を接待、および三宅亡羊『履歴』のこと
四 宗礀と西洞院時慶、その後
五 江湖散人栩子の加藤清正追悼文
六 無名子作、老野狐と余との問答
第四章 宗礀と文英清韓
一 文英清韓の履歴
二 清韓、宗礀作の詩編を称賛
三 文英清韓の宗礀宛書翰
四 清韓、伊勢の実家への書翰
五 清韓から長谷川左兵衛宛書翰
六 文英清韓のその後
第五章 中院通勝の源氏講釈と浅井左馬助・烏丸光広
一 中院通勝の『源氏物語』講釈と『源語秘訣』
二 源氏講釈と浅井左馬助
三 中院通勝の浅井左馬助宛書翰
四 京都での浅井左馬助
五 浅井左馬助と烏丸光広
六 宗礀と烏丸光広
七 藤原定家筆『十五首和歌』をめぐって
八 中院通勝の畊庵宛書翰
第六章 宗礀と林羅山との交流
一 林羅山、宗礀に寄する序
二 宗礀、林羅山を称える詩文
三 林羅山、宗礀叟に答ふ
四 林羅山、祖愽詩を和し、兼て宗礀に寄する詩
五 林羅山の宗礀宛礼状
第七章 宗礀と智仁親王、漢籍講釈
一 智仁親王の古典漢籍受講
二 宗礀、智仁親王に『孟子』・『史記』を講釈
三 『智仁親王詠草類 二』所収の漢詩について
四 元和二年北陸行の漢詩は宗礀作
第八章 宗礀と中院通村
一 堀河具世筆『八代集』をめぐって
二 中院通村補筆の『古今集』下巻と偏易
三 偏易の経歴と事績
四 中院通村と宗礀、古典籍をめぐって
五 烏丸光広の富士山詠をめぐる噂話と中院通村
六 前田利常、中院通村に『源氏抄』を所望
七 『桑華字苑』にみる宗礀父子の評
八 水宿子から宗礀宛書翰
九 加賀前田家からの書物と中院通村
十 『泰重卿記』にみえる宗礀
第九章 宗礀の加賀行きと松永昌三・王国鼎
一 松永昌三、宗礀の加賀行きに同行
二 『賀州行紀』について
三 『賀州行紀』の宗礀・昌三の漢詩
四 宗礀の菊花詩に和する松永昌三の詩文
五 王国鼎の宗礀宛書翰
六 王国鼎の事績
第十章 松永昌三の『宗礀老生誄并叙』
一 宗礀の死を惜しむ
二 素質・人格に優れ、若くして逸材たること
三 音曲を楽しむ
四 壮年に至り反省し、寸暇を惜しみ学問に専念する
五 六藝・百家を学ぶ
六 声望あり、講筵に受講者多し
七 特に儒学を教授する
八 詩作・文章・和歌に優れる
九 世俗の諸分野にも通暁
十 肥侯(加藤清正)に招かれ往還す
十一 肥侯没し、宗礀京に帰る
十二 加賀太守(前田利常)に招かれ、儒学を推奨する
十三 松永昌三、宗礀の加賀行きに随行、詩作などの薫陶に感謝
十四 疲労のため発病を恐れ、昌三帰京する
十五 宗礀、龍安に僧房を創建す。昌三、隠居家を訪い歓談
十六 宗礀、病に臥す
十七 宗礀、没す
十八 小括
結び 篠屋宗礀の生涯
附章 多福文庫について
一 「多福文庫」印をめぐって
二 多福文庫旧蔵書および宗礀が関係した典籍
篠屋宗礀年譜稿
参考文献
あとがき
索引(人名・書名・研究者名・蔵書印印文)
(平成28年度日本学術振興会助成図書)
内容説明
【「はじめに」より】(抜粋)
篠屋宗礀の名は名鑑・事典・系図類に見出し難く、管見の限りでは芳賀矢一編『日本人名辞典』に、「ソウカン 宗間(篠屋)儒者。京都の人。己陳齋と號す。八條親王に侍して史記を講ず。林羅山の友。慶長頃の人。」とあるのが唯一で、この記述の依拠資料は、後で触れる宗礀宛林羅山書翰と思われる。
最初に結論を言えば、宗礀は慶長・元和の頃、京都において儒者にして医にも理解が及んだ人物と思われる。若年の林羅山と知り合い、智仁親王に漢籍を講じ、公家や五山僧・連歌師などと文事を中心に多彩な交際圏を持った。儒を以て肥後の加藤清正に仕え、のちには加賀の前田利常にも招かれたが、京都に拠点を置いた、おそらくは裕福な町衆であっただろう。また従来印主が確定されていない「多福文庫」印は、宗礀の印かと推測される。本書はほとんど忘れ去られた宗礀の事績を追尋し、その周縁で関わりを持った人物との交流を探り、近世初期の京洛の学芸文事に、重要な足跡を残した文化人として定位させることを目標とする。併せて「多福文庫」印のある書物を紹介し、散逸した多福文庫のささやかな復元を試みる。宗礀の事績は、従来まったく注目されておらず、本書では彼に関わる未紹介の資料、あるいは断片的なものについても意を用い、その注解的な記述も試みたゆえ、いささか煩瑣な論述になることをお断りしておく。