目次
前 言(齋藤 茂) 凡 例
詩僧皎然集注
杼山集序 朝議郎大夫守湖州刺史于頔撰
001五言奉酬于中丞使君郡齋臥病見示一首 附 郡齋臥疾贈晝上人(上人早名皎然晩字晝)湖州刺史于頔
002 五言贈李中丞一首 003 五言杼山禪居寄贈東溪吳處士馮一首
004 五言妙喜寺高房期靈澈上人不至重招之一首
005 五言奉和薛員外誼贈湯評事衡反招隠之跡兼見寄十二韻
006 五言荅黎士曹黎生前適越後之楚 007 五言荅豆盧次方
008 五言荅蘇州韋應物郎中 009 五言荅鄭方囘
010 五言荅兪挍書冬夜
011 五言妙喜寺逹公禪齋寄李司直公孫房都曹德裕從事方舟顏武康士騁四十二韻
012 五言遙酬袁使君高春暮行縣過報德寺見懷
013 五言冬日遙和盧使君幼平綦母居士游法華寺高頂臨湖亭
014 五言秋日遙和盧使君遊何山寺宿敭上人房論涅槃經義
015 五言酬秦山人系題贈 016 五言奉酬袁使君高寺院新亭對雨(其亭即使君所創)
017 五言奉酬顏使君眞卿見過郭中寺寺無山水之賞故予述其意以荅焉
018 五言酬烏程楊明府華雨後小亭對月見呈 019 五言自蘇州訪醫迴酬盧士關判官見贈
020 五言題沈道士新亭 021 五言送盧仲舒移家海陵
022 五言陪盧使君登樓送方巨之還京一首 023 五言同裴錄事樓上望
024 雜言寓興 025 七言寄常一上人 026 五言送祕上人遊京 027 五言賦得啼猿送客
028 五言南樓望月 029 五言尋陸鴻漸不遇 030 五言懷舊山 031 五言宿吳匡山破寺
032 五言九月十日 033 七言晩秋破山寺 034 七言靑陽上人院説金陵故事
035 七言送僧之京師 036 七言送許丞還洛陽 037 七言題湖上草堂
038 五言酬李司直縱諸公冬日遊妙喜寺題照昱二上人房寄長城潘丞述
039 五言贈烏程李明府伯宜沈兵曹仲昌 040 五言奉酬顏使君眞卿王員外圓宿寺兼送員外使迴
041 五言杼山上峰和顏使君眞卿袁侍御五韻賦得印字仍期明日登開元寺樓之會
042 五言同薛員外誼喜雨詩兼上楊使君
043 五言南湖春泛有客自北至説友人岑元和見懷因敍相思之志以寄焉
044 五言同薛員外誼大旱感懷寄兼呈上楊使君
045 五言兵後早春登故鄣南樓望崑山寺白鶴觀示淸道人并沈道士
046 五言酬烏程楊明府華將赴渭北對月見懷
047 五言酬邢端公濟春日蘇臺有呈袁州李使君兼書并寄辛陽王三侍御
048 五言奉和裴使君淸春夜南堂聽陳山人彈白雪
049 五言荅孟秀才 050 五言酬崔侍御見贈
051 五言贈柳喜得嵩山法門自號嵩山老 052 五言酬李補闕紓
053 五言湖南蘭若示大乗諸公 054 七言兵後經永安法空寺寄悟禪師(其寺賊所焚)
055 七言春日杼山寄李員外縱 056 七言酬秦山人贈别二首
057 又 058 七言山居示靈澈上人
059 七言遙和康錄事李侍御蕚小寒食夜重集康氏園林
060 七言釋裴循春愁 061 七言西白溪期裴方舟不至
062 七言勞山憶棲霞寺道素上人久期不至 063 七言酬秦山人出山見呈
064 七言酬秦山人見尋 065 七言宿法華寺簡靈澈上人
あとがき(乾 源俊) 立項語彙索引/杼山集作品番号表/引用文献版本一覧
執筆者一覧:伊崎孝幸・一澤美帆・稲垣裕史・上原尉暢・大角紘一・嘉村 誠・坂井多穂子・谷口高志・
谷口 匡・永田知之・成田健太郎・二宮美那子・長谷川愼・福井 敏・藤原祐子・緑川英樹・
湯浅陽子
内容説明
【本書より】(抜粋)
安史の乱は唐代を前後に分かつのみならず、中国の歴史全体においても大きな転換点となった事件であっ たが、文学をめぐる情況にも少なからぬ影響を与えた。朝廷の権力が弱まり、各地に置かれた節度使、観察使らの力が相対的に強まったことで、文化的にも遠心力が働きだしたことはその一例である。中央で容易に出仕の道が開けない士人たちが、節度使らの幕僚として集まるようになり、文化的な素養のある長官であれば、時としてそこにサロンが出現することとなった。皎然は俗姓を謝、字を清昼と言い、本貫は湖州長城県であった。生卒年はいずれも明らかでないが、生年は開元八年(七二〇)頃、卒年は貞元九年(七九三)から十一年の間と推測される。東晋の名族謝氏に連なる家柄であり、自身も謝霊運を遠祖と称している。若年に出仕を志し、科挙にも応じたが、結局その志が叶わずに出家の道を選んだことが窺える。出家したのは二十代後半と推定されるが、その後に安史の乱が起こったため、以後は湖州を中心とした江南地域で活動し、多くの名士と交流した。『茶経』で知られる陸羽と忘年の交わりを結んだのを始め、韋応物、皇甫曾、皇甫冉、顧況、李嘉祐らと詩の唱和をしている。とくに大暦八年(七七三)から十二年まで湖州刺史を勤めた顔真卿とは、親しく交流しただけでなく、彼の行った編纂事業およびその主催する文酒の会にも参加して主導的な役割を果たした。皎然に対する研究の必要性は以前より指摘されたきたが、その詩文のみならず、仏徒としての思想のあり方、『詩式』と実作との総合的な検証など、取り上げるべき問題点は多く、また難しさをはらんでいるため、あまり進んでいなかった。今回、研究班を組んで改めて作品を丹念に読むことから始めたのは、敢えてその困難さに立ち向かい、今後の研究の基礎を築くためであった。ここに公刊するのは『杼山集』の巻一のみであり、まさに道は始まったばかりだが、我々の仕事に些かでも見るべきものが有れば、これに勝る喜びはない。(前言より)
皎然の詩には釋家としての自己と詩人としての自己の矛盾にいかに折り合いをつけるかという問題設定が基調にあるように見受けられる。釋家としてのおのれは跡形もなく消え去ることを望んでいる。それに対して詩作行為は名を記しこの世に姿を顕してしまうことに他ならない。じっさい彼にとってこの問題は切実で、しばらくの間、文筆を廃したことがあったと述べてもいる。こうした厳しい問いかけが、その詩を他の詩人の詠む風景とは違った、特色あるものにしているように思われる。皎然の思想遍歴上の問題について、詩の読解をとおしていくらかの手がかりを得た。彼は天台禅にもとづいているが、湛然との接触があるかに見える。とすればその詩世界が湛然の説く仏性説と関係するであろう。また北宗禅に近いとされるが、他にも牛頭宗との関係が指摘され、これを裏付けるかにみえる記述もある。そもそも受戒の師は律師守真であった。その他、仏教にたどり着くまでには道教の修行も経験している。皎然をとおして当時の士人を取り巻く複雑な思想情勢が窺えるようだ。こうしたことが課題として見えてきた。不足は多々あろうが、詩と禅の理解に本書がいささかの助けになれば幸いである。(あとがきより)